半白の茶会<寄付編>
12月10日(日曜日・友引)
新宿 柿傳にて【半白の茶会】を披きました。
白寿100歳の半分だから半白。
友人の田中孝明氏による柔らかな琴の音色に包まれて、キリリと気の引き締まる冬の1日が始まりました。
50年の間、生を全うするってどんなことか想像もつきませんでしたが、それでもこのような機会を作り、自分の生きてきた道を振り返る良いきっかけとなり、有難く感謝しております。
自分自身のために祝いの会を開くことには躊躇感があったものの、感謝の気持ちを表現し、これからの人生描写を報告するためでしたら….との想いから茶会を開かせていただくことに致しました。
1967年12月4日(月曜日)『おぎゃ〜』とこの世に生を受けました。その日はどんな1日だったのか?あまり考えたこともありませんでしたが、裏千家学園でお世話になった先輩二人による素敵なプレセントから、ちょっぴり垣間見られたような気が致します。
沼尻真一さんと海老澤沙衣香さんとは学園を後にしてからも交友が続き、お互いの開く茶会のヘルプをしあったり、西へ東へ縁ある茶会に一緒に出向いたり一生涯の学びの友となりました。
今秋のこと、3人で一緒に出向いた<光悦会>で1日を過ごし、インタビューを受けました。それを基に作り上げて下さった寄り付きの掛け軸は、私の誕生日の新聞をバックに麗しいフェニックスを描いたもの。
この日付の新聞を使った意義は、裏千家の茶室“咄々斎”の次の間や様々な茶室の襖や腰張りに使われる反古紙を見立てて、侘び茶の精神を演出したとのこと。
新聞!という日常のものの上に“長谷川千佳の人生”をイメージしたフェニックスが下書きされたものが用意されていました。羽の部分はゲストの方々に一筆ずつ加えていただき、昼の部(一の席)と夜の部(二の席)と皆様の手が入り完成されていきました。
50年を振り返り、皆様へも私の生い立ちをお話ししましょう。
祖父が立ち上げた建築金物業を生業とする会社を引き継ぎ経営者であった父、母は趣味で始めた着付けから和の文化に関わる仕事をしていました。教室を開き、着物を縫い、和装コンサルタント業をしながら私を育ててくれました。
そんな二人から生を受けました。幼稚園時代から高校卒業までは西洋の文化ばかりに目がいき、踊りに明け暮れた日々。放課後はクラッシックバレエ、モダンバレエ、タップダンスやYOGAなどに明け暮れ、身体を精一杯動かした毎日。
一方 学業は、高校も大学も受験。望みの学校には入れずに失敗つづき…そんな私に対し、『くよくよしていたって時間は過ぎる!せっかく受け入れてくれる学校があるのだからまずは進学して、その中でやりたいことを見つけなさい』と叱咤激励してくれたのは父でした。
高校時代は夏休みにアメリカでホームステイを、大学時代は1年間休学して英国で過ごすことを目標にして立ち直ったのを思い出します。
20歳までは気持ちが日本の外にばかり向いていた子供時代でありました。海外での生活を通し、我が国ニッポンの文化に目覚め、帰国後は日本の歴史などを紐解くも、これ!というものが見つけられずにおりました。茶道との出会いは、ちょうどその頃。母の通うお茶のお稽古場の門戸を叩くことになったのがきっかけでした。
20代になると心の中に様々な葛藤や不安が生じ、その影響からか食障害 拒食症 引きこもり 鬱….これ以上落ちるところが無いどん底まで陥った10年を過ごしました。毎日をどうやって過ごして来たのか今でも記憶にないくらい。精神は病み、生きていた感覚を憶えていません。
外へ出たい!と思える日は数少なかったものの、就職し社会との接点を持とうとの意識が少しずつ芽生えで来た頃に結婚を前提におつきあいしたいという方に出会いましたのが今の夫です。
結婚を機にこのまま就職を続けるか、辞めて家庭に入るか迷っている私に対し、
『とことんまでやってみたい事があるのなら、それを全うする人生も良いのでは?』との意見をくれたのが彼でした。
はてさて“私のとことんって?”
『お茶!茶の湯が傍にあるときはどんな辛いことでも乗り越えられたわ♫』
『だったらプロになるつもりでやってみなさい!』
『プロね〜。お茶のプロって….』と考えながら仕事を辞めて、お茶の道に専念する日々を送ることに致しました。
好きな道を見つけながらも、他にもプレッシャーがかけられる。それは、後継を産まなければいけない境遇の家に嫁いだからでした。またしても悩みの日々が10年。治療のために体に薬を注入し、過剰摂取のためICUへ担ぎ込まれたことも。死に直面した日もございました。私たち夫婦はたくさんたくさん会話を交わし、子供を持たずに支えあって生きていくことを決意したのは40歳を目の前にする頃でした。
30代は不妊治療をしながらも和のことに触れふわふわと過ごしましたが、今思えばあの頃に何気無く経験して来たことが生かされている昨今のような気が致します。
40代に入り準教授の許状を拝受。ただただ喜び勇む私に対してまたしても喝を入れたのは夫でした。
私『お許状をいただいたの❤️』
夫『それで?何ができるお許しなの?』
私『….教えることができるみたい』
夫『だったら教えたらいいじゃない!』
道具もない。教えるべき人も居ない。場所もない!
無い無い尽くしの私に何ができるのか?
『畳三畳あればお茶はできる!』と答えた私に、夫はリビングに畳を敷くことを勧め、それを基に稽古場を開いたのが我が家での茶道教室の始まりでした。
それから6年が過ぎ、来てくださる弟子も増えて来たこともあり、同じ敷地内に住まう義父と義母の協力があり 母屋の一部屋を四畳半に改装させていただくことが叶いました。社中の皆様のお稽古内容も向上して来たこともあり、その5年後の今夏!もう一部屋を八畳間へと改装し今に至っております。
10年越しの稽古場作り。
何もかもが必死だった日々でしたが、<何をしたいのか?>を明確に決め、<強い信念>を持ち、それを<実行させようとする真剣な想い>さえあれば、物も人も自然と周りに現れてくるものと実感しております。
そんな夢見たいなこと….と戯言にしか思えないでしょうが、丁寧に一歩一歩 地にしっかりと脚を踏みながら一生懸命に生きていれば、神様は必ず観ていてくださると信じて前に進む今日です。
【フェニックス=不死鳥】
この鳥が沼尻さんと海老澤さんにとって私のイメージだったようです。
そして、ここ数年前から九星気学を学び始め、わたくしの星である六白金星の特徴も取り入れての茶会でとさせていただきました。テーマカラー白・金・銀。
茶会のプレリュードである<寄付>にたくさんの想いを込めて下さったお二人には感謝の気持ちが込み上げて、涙が溢れて止まりません。